熊本にある肥後一之宮、阿蘇神社の御朱印です。
創立は紀元前にまで遡る、屈指の古社
阿蘇神社は全国に約500社ある「阿蘇神社」の総本社で、伝えられる社記による創建は、孝霊天皇9年(紀元前281年)に遡ります。お祀りしている神様は十二神ですが、なかでも1,000年以上も前から歴史書に記載がある神様は神武天皇の孫神である「健磐龍命」、そのお妃である「阿蘇都比咩命」、阿蘇初代の国造で二人の子である「国造速瓶玉命」の三神は特に重くお祀りされています。
初代の阿蘇国造に任じられた阿蘇速瓶玉命が、両親をお祀りしたのが創始とされており、阿蘇神社の宮司である「阿蘇大宮司家」は「健磐龍命」から連綿と続く家系であるといわれています。現在の大宮司は92代目を数え、これは皇室に続く旧家であることを示すものであり、出雲大社の千家家や和歌山の国懸神宮の紀家とともに日本の名族として知られています。また、歴史上においても代々天皇家のために尽くしていたことが知られています。
阿蘇山火口を阿蘇神とする信仰が風土記にも見られること、また阿蘇山の火口の変異は、古代律令国家では凶兆を判断していました。阿蘇神社は神へ奉仕する立場から、次第に中央政府からの地位が向上していきます。やがて広大な神社領が一帯に形成されるようになると、平安時代末期には「阿蘇大宮司」を称して武士団化します。
中世以降は肥後国の大半を阿蘇大宮司家が所有するほど勢力を拡大していました。南北朝時代の武将で、室町幕府の初代征夷大将軍に就いた足利尊氏による「髻の綸旨(もとどりのりんじ)」や「もとどり文」と呼ばれる軍勢催促状を保有するなど、貴重な古文書資料が今でも多数遺されています。「髻の綸旨」とは、人目につかぬように密使が届けた文書で太平記に頭髪の髻の部分に文書を隠して届けたことからこの名がつきました。
豊臣秀吉による社領没収から復興へ
広大な敷地を有していた阿蘇神社ですが、中世において大きな転機を迎えます。大宮司としての一面だけでなく、多くの豪族を家臣団として編入させて、武士団となっていた阿蘇大宮司家は戦国大名へと変貌を遂げていました。
ところが戦国時代末期に島津氏との争いによって、阿蘇大宮司家は弱体化を余儀なくされます。さらに天下統一を掲げた豊臣秀吉による九州征伐で社領を没収されてしまうのです。1593年(文禄2年)に77代大宮司の阿蘇惟光が斬首されると大宮司は滅亡、神社は荒廃していきます。
その後、この地の領主となった加藤清正が1601年(慶長6年)に阿蘇惟光の弟を阿蘇神社の神主にたて阿蘇家を再興させます。社領は阿蘇郡の300石の所領が与えられましたが、かつての阿蘇大宮司家は阿蘇神社の宮司としての地位のみが認められました。
清正の改易後は熊本藩の藩主・細川氏によって社領の寄進や社殿の造修が行われています。社殿は天災などで焼失を繰り返し、現在の社殿は江戸期におよそ20年もの歳月をかけて造営されました。
全国でも珍しい楼門は二層の屋根で1849年(嘉永2年)に竣工しました。
縁結びのご利益がある? 浪曲「高砂の松」のモデルとなった場所
時代劇などで婚礼の場面で「高砂や~~」と謡うシーンをご覧になった人もいるでしょう。その謡曲のモデルがこの松です。26代大宮司である阿蘇友成が宮中への参内のために上京した際、途中の播州尾上で縁起がよいといわれる松を詣で、持ち帰えった実を植えたものだそう。夫婦愛と長寿を愛でる謡曲ですが、この松の周りをぐるっとまわるとご利益があるといいます。
珍しい、社殿に対して正面にならない横参道とは
通常、神社の鳥居は参道が社殿に対して正面に位置しています。しかし、阿蘇神社では横参道と呼ばれる不思議な位置に鳥居が。一説によると、阿蘇山そのものをご神体として信仰したのがはじまりだともいわれています。鳥居の奥に見えているのが神社の北にある阿蘇山です。
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阿蘇神社
御祭神:健磐龍命、阿蘇都比咩命、国造速瓶玉命
旧社格:式内社(名神大)、肥後国一宮、旧官幣大社、別表神社
熊本県阿蘇市一の宮町宮地3083-1
[map]熊本県阿蘇市一の宮町宮地3083-1[/map]