寛永寺の御朱印 | 御朱印と寺社旅の情報マガジン「ご朱印びと」

寛永寺の御朱印



寛永寺の御朱印

東京・上野にある寛永寺の御朱印です。

徳川将軍家ゆかりの寺院

創建は江戸城築城にも携わり、家康・秀忠・家光の三代にわたって仕えた天海僧正によって建立されました。この地が江戸城の鬼門に位置することから幕府の安泰と民の平安を祈願するのが目的でした。山号を「東の比叡山」という意味で東叡山と称しています。これはかつて平安京を興した桓武天皇が帰依した最澄が、京都御所の鬼門の位置に比叡山延暦寺を建立し、守護させた例に倣って寛永寺を建立したことに由来します。

今はさして広くない寛永寺の境内ですが、最盛期には上野公園を中心に約30万5,000坪にも及ぶ広大な敷地を有した、巨大な寺院でした。しかし、徳川幕府と尊王攘夷派が戦った戊辰戦争では上野が戦場となり、その大部分が戦禍によって失われてしまいました。

さらに新しく興った明治政府から敷地も没収されてしまいます。1879年(明治12年)にようやく寛永寺の復興が認められると、川越喜多院の本地堂を上野に移築して根本中堂が再建されます。根本中堂とは、いわゆる「本堂」の語源にもなったといわれる一山の中心となる建物です。写真の中央に建つ建物が、この時に移築された根本中堂です。かつて寛永寺の根本中堂は、間口45メートル、 奥行42メートル、高さ32メートルという徳川家の菩提寺として壮大な規模を誇る、規格外に瀟洒なものでした。

本堂には「瑠璃殿」という扁額が掲げられています。

これは第113代天皇・東山天皇の御宸筆です。1698年に寛永寺の敷地に根本中堂や文殊楼、仁王門が落成します。その落成に合わせて、京都御所から江戸へ送られました。写真は、戦禍を逃れて今日に至る現物です。

瑠璃殿の勅額には忠臣蔵で知られる吉良上野介に関するエピソードがあります。吉良上野介の屋敷は神田・鍛冶橋にありましたが、1698年8月に起きた火事で全焼してしまいます。この火事、江戸市中の大半を延焼させたともいわれるほど大規模な火災でした。京橋にあった商家から出火して、神田駿河台から湯島天神、浅草、三ノ輪までを焼きつくしたとか。被害は大名屋敷だけでも80軒以上、町家は18,700軒も燃え、死者の数は3,000人以上というから被害甚大です。

前述のとおり、京都から寛永寺の根本中堂建立に合わせて天皇家から送られた扁額が、江戸に到着した日に起きた火災であることから、この火事はのちに「勅額火事」と呼ばれることになります。かくして吉良上野介は赤穂浪士の討ち入り現場となる本所・呉服町へ屋敷を移転して再建することになるのです。

 

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この御朱印はここでもらえます

寛永寺

山号:東叡山
宗派:天台宗
寺格:関東総本山
ご本尊:薬師如来

 

東京都台東区上野桜木1-14-11

東京都台東区上野桜木1-14-11
この記事を書いている人:大浦春堂(syundo ohura)
編集者とか旅ライターとかやってます。著書は『神様が宿る御神酒』(神宮館)、『神様とつながる暮らし方』(彩図社)、『御朱印と御朱印帳で旅する全国の神社・お寺』(マイナビ出版)は4刷目。
観たり、食べたりしたものはブログにて写真たっぷりめで更新中。お仕事のご依頼・ご相談はコンタクトフォームからお願いします。

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